ヨハネ8章

8:1 イエスはオリーブ山に行かれた。

8:2 そして朝早く、イエスは再び宮に入られた。人々はみな、みもとに寄って来た。イエスは腰を下ろして、彼らに教え始められた。

8:3 すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、

8:4 イエスに言った。「先生、この女は姦淫の現場で捕らえられました。

8:5 モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています。あなたは何と言われますか。」

8:6 彼らはイエスを告発する理由を得ようと、イエスを試みてこう言ったのであった。だが、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。

8:7 しかし、彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」

8:8 そしてイエスは、再び身をかがめて、地面に何かを書き続けられた。

8:9 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始まり、一人、また一人と去って行き、真ん中にいた女とともに、イエスだけが残された。

8:10 イエスは身を起こして、彼女に言われた。「女の人よ、彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さなかったのですか。」

8:11 彼女は言った。「はい、主よ。だれも。」イエスは言われた。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」〕

 イエス様を訴えようとして律法学者とパリサイ人は、裁きを下しませんでした。具体的には、石打ちにしませんでした。それは、彼らが自分が罪がないと言うことができなかったからです。この罪は、内面の罪ではありません。福音伝道では、内面の罪として取り扱うことが多いですが、これは、姦淫の罪の処罰という問題です。社会的な裁きなのです。ですから、内面が問題にされることはありません。そうでなければ、誰も罪を処罰することはできないのです。彼らが、裁きを下す資格がないと判断したのは、内面の罪ではなく、彼らがしようとしていたこと自体です。彼らは、人を陥れるために、姦淫の現場を見張り、女だけを捕らえてきたのです。その行為自体が犯罪です。彼らが見張りまでしたのであれば、犯罪を犯す前に止めるべきでした。彼らは、犯罪が犯されるのを見届けてから、捕らえて連れて来たのです。

 年長者から始めて、順に出て行ったのは、犯罪を企んだのは、年長の者だからです。若い者は、それに従ったのです。彼らは、年長者たちの行動を見てから行動したのです。繰り返しますが、ここでは、内面の罪を問題としてはいません。年長者ほど罪について敏感であったというのは、適切ではありません。年長者ほど面子に拘り、頑固で、自分の罪を認めないのです。

 では、イエス様は、犯罪を犯していたので、裁きを下さなかったのでしょうか。それとも、姦淫は、罪ではないのでしょうか。絶対にそんなことはありません。この記事をもって姦淫を正当化することはできません。

 訴訟手続きが間違っているのですから、律法に従って彼女に裁きを下すことはできないのです。

 彼女が姦淫を犯したという罪は、誰も裁くことができませんでした。それは、仕組まれた犯罪の中で取り扱われたからで、彼女を有罪とすることができなかったのです。ですから、イエス様が、彼女を裁きを免れた者として、実際の姦淫の罪について何もしないのは当然です。イエス様は、石を投げなさいと命じたのです。律法の言葉を守りました。しかし、仕組まれた犯罪のために、人々は処罰はできなかったのです。イエス様は、裁きを下さないのは、当然です。決して、姦淫の罪を見逃したということではありません。訴えの方法が間違っている以上、訴えた者たちが退いたように、律法によっては裁くことができないのです。しかし、律法の観点からしても、もう姦淫の罪を犯してはならないのです。正当な訴えであれば、彼女は、石打ちの刑に処せられるべきなのです。そして、イエス様は、もうこのような罪を決して犯してはならないことを命じています。

 ただ、この女は、「主よ。」と呼びかけています。神の前における罪について、「わたしも裁きを下さない。」と言われることで、神として罪を裁くことができる方が、彼女の信仰のゆえに、罪を赦されたのです。そのような人であるからこそ、もう決してこのような罪を犯してはならないのです。彼女に裁きを下さなかったのは、彼女が「主よ。」言い表したからです。この言葉に彼女のイエス様に対する信仰を見ることができます。それで、神の前に罪を赦されたのです。そのうえで、彼女はもう罪を犯してはならないことをきつく命じました。もはや、姦淫の罪は、決して犯してはならないのです。もちろん他の罪は、犯してはなりません。それは、どの信者にも言えることです。聖い歩みによって証しを立てなければならないのです。それは、信者の幸のためです。御心を行う聖い歩みは、永遠の報いという祝福をもたらすからです。

8:12 イエスは再び人々に語られた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」

 「世の光」とは、世にとっての光です。これは、日の光や月の光のことではありません。人は、夜に闇の中を歩むこともあるからです。これは、命の光であると言い換えられています。その光を持つのです。それを持つ者は、イエス様に従う者です。その教えを受け、その教えの中に歩む者のことです。ですから、光としてのイエス様は、その歩むべき教えを示す方です。それは、言葉による教えであり、模範による教えです。そして、人のうちに住まれて、肉にはよらない行いをさせる活動です。それは、教えの実行を担うのです。端的に言えば、光は、教えです。

8:13 すると、パリサイ人はイエスに言った。「あなたは自分で自分のことを証ししています。だから、あなたの証しは真実ではありません。」

 パリサイ人は、イエス様語られる言葉の内容に耳を傾け、理解しようとしたのではなく、イエス様を信用していませんから、自分だけがそのように語ったとしても、信頼できないというのです。

8:14 イエスは彼らに答えられた。「たとえ、わたしが自分自身について証しをしても、わたしの証しは真実です。わたしは自分がどこから来たのか、また、どこへ行くのかを知っているのですから。しかしあなたがたは、わたしがどこから来て、どこへ行くのかを知りません。

 イエス様は、ご自分の証しが真実であることを証ししました。その理由は、御自分がどこから来て、どこへ行くか知っているからです。その意味は、御自分がそれを知ることができる者として神であるからです。しかし、人々は、イエス様どこから来てどこへ行くのか知らないのであり、不完全な人間なのです。

8:15 あなたがたは肉によってさばきますが、わたしはだれもさばきません。

 そして、人々の裁きは、肉による裁きです。人間的な思いでの裁きなのです。そのような裁きで、イエス様を判断しようとしているのです。

 イエス様は、神であるにもかかわらず、そのような不信仰な人々を裁くことはありません。

8:16 たとえ、わたしがさばくとしても、わたしのさばきは真実です。わたしは一人ではなく、わたしとわたしを遣わした父がさばくからです。

8:17 あなたがたの律法にも、二人の人による証しは真実であると書かれています。

8:18 わたしは自分について証しする者です。またわたしを遣わした父が、わたしについて証ししておられます。」

 イエス様は、その裁きが正しいことを示されました。イエス様を遣わされた父と共に裁くからです。そして、イエス様についての証しは、イエス様ご自身と、父が証しされるからです。

8:19 すると、彼らはイエスに言った。「あなたの父はどこにいるのですか。」イエスは答えられた。「あなたがたは、わたしも、わたしの父も知りません。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知っていたでしょう。」

 彼らは、イエス様が父と言われた方がどこにいるのかと聞きました。イエス様は、信じようとしない彼らに、父なる神を示すことはありませんでした。しかし、彼からがイエス様も、父も知らないことを指摘しました。イエス様を見れば、神であることがわかり、そして、イエス様を遣わされたのが父なる神であることを知ることができたのです。しかし、それを信じようとしない彼らに、どんなに説明しても彼らは受け入れることはないのです。

 いかに御言葉が取り次がれ、あるいは福音が語られようとも、それを信じて受け入れない限り、その人はイエス様も、父なる神も知ることができないのです。これは、信者に関しても同じです。ある方は、御言葉を信じないのです。そもそも御言葉の正しい意味を知らないことが最大の問題です。

8:20 イエスは、宮で教えていたとき、献金箱の近くでこのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。

 パリサイ人たちは、神を知っていると考えていました。しかし、イエス様は。彼らは父である神を知らないと言ったのです。そう、イエス様を信じない彼らは、父である神を知らないのです。

 イエス様が彼らの不信仰を明確に指摘しましたが、彼らは手出ししませんでした。イエス様の時がまだ来ていなかったからです。

8:21 イエスは再び彼らに言われた。「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜しますが、自分の罪の中で死にます。わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。」

 彼らは、イエス様を探すけれども、彼らは、内住の罪の支配を受け、肉に従って歩むだけです。いつまで経っても、イエス様を知るようになならないのです。人間による教え、肉による裁きあるいは判断でイエス様を評価しようとするのですから、イエス様を知ることができないのです。結局は、内住の罪の中で死ぬのです。イエス様を探したとしても、イエス様の元に行くことができません。最終的に、イエス様を信じることなく、彼らの行く先は、永遠の滅びです。

・「罪の中で」→「罪」は単数定冠詞付きです。ですから、これは、内住の罪のことです。犯した罪が赦されないので死ぬすなわち永遠の滅びに入るという単純な話ではありません。

8:22 そこで、ユダヤ人たちは言った。「『わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません』と言うが、まさか自殺するつもりではないだろう。」

 ユダヤ人たちは、イエス様が行くところに、彼らが来ることができないと言われたことについて、イエス様が自殺するので、彼らがそこに行けないのということだろうかと考えました。

 彼らの見方は、人間の世界の見方です。彼らにとっては、肉体の生と死しかないのです。ユダヤ人でありながら、霊の世界について考えていません。イエス様をただの人間と考えているからです。

8:23 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは下から来た者ですが、わたしは上から来た者です。あなたがたはこの世の者ですが、わたしはこの世の者ではありません。

8:24 それで、あなたがたは自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。わたしが『わたしはある』であることを信じなければ、あなたがたは、自分の罪の中で死ぬことになるからです。」

 「自分の罪の中で死ぬ。」→「罪:複数定冠詞付き」これは、彼らが犯した全体。これは、彼らがイエス様を信じないことで、地獄の滅びに入ること。内住の罪のままに生きイエス様を知ることがないことで、イエス様が「わたしはある。」すなわち、イエス様が存在者であること、神であることを信じないので、彼らが犯した罪のために地獄の滅びに入るのです。内住の罪のために地獄に落ちるのではないのです。犯した罪のために地獄に入るのです。そこから救われるためには、イエス様が神であると信じなければならないのです。

 イエス様は、この世の者ではなく、上から来られた方です。

8:25 そこで、彼らはイエスに言った。「あなたはだれなのですか。」イエスは言われた。「それこそ、初めからあなたがたに話していることではありませんか。

 彼らは、イエス様が直接「わたしはある。」と言われたのに信じませんでした。再び、あなたは誰なのですかと問うています。イエス様は、たった今それを明かしされたのです。また、ずっとそのことを証ししておられたのです。それなのに信じないのです。分からないのです。

8:26 わたしには、あなたがたについて言うべきこと、さばくべきことがたくさんあります。しかし、わたしを遣わされた方は真実であって、わたしはその方から聞いたことを、そのまま世に対して語っているのです。」

 そのように頑なで、不信仰な人たちについて、裁くべきこと言うべきことは山ほどありました。しかし、イエス様は、裁かれるのではなく、彼らに忍耐しながら話されました。それが、父の御心であるからです。父は、そのような頑なで、理解しない人々に対して、忍耐によって語られます。

8:27 彼らは、イエスが父について語っておられることを理解していなかった。

 彼らは、イエス様が神である父について語っていることを理解しませんでした。

8:28 そこで、イエスは言われた。「あなたがたが人の子を上げたとき、そのとき、わたしが『わたしはある』であること、また、わたしが自分からは何もせず、父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していたことを、あなたがたは知るようになります。

 独り子を上げた時とは、イエス様を人々が十字架に掛けた時で、天に上られた時です。彼らは、主イエス様のよみがえりを知るのです。それによって、イエス様が「わたしはある。」であることを知るのです。すなわち、永遠の存在者であり、神であることを知るのです。

 そして、ご自分からは何もしないで、父の教えられた通りに話していることを知るようになるのです。それは、神の御子が罪人の間に来られたのに、誰も裁きを受けることなく、死ぬこともなかったからです。神を直接見たならば、すぐに死ななければなりません。人々は、普通の人に接するように、接することができました。むしろ。柔和でご自分を低くして受け入れてくださいました。話されることは、人々が地獄の滅びから救われ、さらに、神様の御心のうちを生きることで永遠の祝福を獲得することでした。人の幸を考えて話されたことです。その時には、神の御子が人の罪のために身代わりに死なれたことを知るのです。

8:29 わたしを遣わした方は、わたしとともにおられます。わたしを一人残されることはありません。わたしは、その方が喜ばれることをいつも行うからです。」

 人々がイエス様を十字架に掛けることになっても、イエス様を遣わされた父は、いつもイエス様と共におられます。イエス様を一人残されることはないのです。それは、イエス様がいつでも父の喜ばれることを行うからです。父が委ねたことを、イエス様は喜んで自ら進んで行われます。ですから、十字架の御業も委ねました。イエス様は、十字架に掛かることが父の御心ですから、自ら進んで、喜んでそれを行われるのです。

8:30 イエスがこれらのことを話されると、多くの者がイエスを信じた。

 多くの人がイエス様を信じました。それは、イエス様が語られることを聞いたからです。イエス様が語られることがその通りであると認めたのです。父なる神様が、実は、人のために御子を遣われたことを知り、信じたのです。イエス様の行いが、ご自分のためでもなく、ただ、父の喜ばれることを行なっていることがわかったのです。イエス様の行いに、嘘偽り、偽善はありませんでした。神の前に正しいことを語られ、行われたのです。

8:31 イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。

8:32 あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」

 イエス様は、その信じたユダヤ人たちに言われました。それは、その人々がさらなる幸いを獲得するためです。それは、信じた人々がイエス様の弟子になることです。そうするならば、自由になれるのです。真理を知り、真理が自由にします。

 自由とは、三十四節に記されているように、罪の奴隷からの解放です。罪とは、人のうちに住む罪のことです。犯した罪の奴隷になることはあり得ません。

 真理とは、神の御心を行って歩むことです。人は、罪に支配され、肉によって神の御心を行うことができず、罪を犯すのです。それは、罪の奴隷です。そのような歩みではなく、神様の御心を正しく行うことができ、神と共に歩む幸いを経験し、そして、そのような正しい歩みに対して永遠の報いをいただくことができるのです。そのことを知ることと、そして、実際にそのことのうちを歩むならば、もはや内住の罪に支配されることはないのです。

 そのために必要なことは、イエス様の言葉にとどまることです。この人たちは、イエス様に留まらないのです。イエス様を信じ、また、その言葉に留まり続けることが必要なのです。

 イエス様を信じれは、地獄の滅びから救われます。しかし、イエス様が与えようとしているものは、もっと優れたものです。イエス様の言葉に留まることによって内住の罪から自由となれるし、永遠の祝福を獲得できるからです。

8:33 彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、今までだれの奴隷になったこともありません。どうして、『あなたがたは自由になる』と言われるのですか。」

 彼らは、奴隷になったことはないと言いました。

 これは、イエス様を信じない人たちの言葉です。イエス様の言葉をそのまま受け入れるのではなく、それに反論し、否定しています。

8:34 イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。

 奴隷とは、内住の罪の支配を受けている者のことです。ここに使われている「罪」は、いずれも単数定冠詞付きです。「行っている罪」は、実際に犯した罪で、ある瞬間に実行したことを指しています。「罪の奴隷」とは、内住の罪のことで、その内住の罪が、神の御心に反したことを行わせるのです。どうしてでしょうか。それは、人に欲があるからです。この体に備わった機能としての欲は、神の御心を行うことよりも、自分を喜ばせることを優先します。

創世記

3:6 そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。それで、女はその実を取って食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫も食べた。

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 美味しそうでした。美しく見えたのです。賢くなると言う自分の誇りを満たすものに見えました。

8:35 奴隷はいつまでも家にいるわけではありませんが、息子はいつまでもいます。

8:36 ですから、子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由になるのです。

 奴隷は、罪の奴隷です。しかし、人が奴隷となるのは、肉体にある期間だけです。ですから、いつまでも家にいるのではないと言われました。でも、イエス様は、人が肉体を持って歩む間、奴隷ではなく、自由にされた者として歩むように働かれるのです。その働きは、いつまでも続けられます。息子が相続者として家にいるように、いつまでも家にいて、奴隷を自由にするために働かれるのです。これは、神の御子である方が、永遠の存在者としていつまでもその働きをされることを表しています。エペソ書三章に記されているように、信者のうちに住まわれて、信者を神と同じ者に変えるために働かれます。

8:37 わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかし、あなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちに入っていないからです。

 イエス様は、ユダヤ人がアブラハムの子孫であると言われたことについて、そのとおりであると認めました。しかし、彼らはイエス様を殺そうとしていることを指摘しました。彼らは、その指摘が正しいことがわかったはずです。

 彼らがイエス様を殺そうという考えを持ち続けていたのは、イエス様の言葉を彼らが全く受け入れていなかったからです。イエス様の言葉をそのまま受け入れるならば、この方が神であることを知ることができたのです。また、罪の赦しと神のの御言葉に従うことで得られる命について知ったはずです。もし、そのような歩みについて知ったならば、決して人を殺そうとはしないのです。まして、神の御子を殺そうなどとは、決して考えないのです。

8:38 わたしは父のもとで見たことを話しています。あなたがたは、あなたがたの父から聞いたことを行っています。」

 イエス様は、父のもとで見たことを行っていますと証しされました。それによって、二つのことを証ししています。父とともにおられた方であること、そして、父が人を救うために計画されたことをそのまま話していることです。

 それと対比して、ユダヤ人については、彼らの父から聞いたことを行っていると言われました。彼らの父とは、悪魔のことです。

8:39 彼らはイエスに答えて言った。「私たちの父はアブラハムです。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行うはずです。

 彼らは、自分たちは、アブラハムの子であると主張しました。偉大な信仰の父の子孫であり、神に喜ばれている存在である言っているのです。

 アブラハムの子であるならば、アブラハムのように信仰によって歩み、神の友と言われるような歩みをするはずです。

 彼らは、確かにアブラハムの子孫でした。しかし、アブラハムの子と称するのであれば、アブラハムと同じ歩みをしなければなりません。信仰によって歩むのです。血筋がつながっているだけでは、なんの意味もありません。自分たちの血統に甘んじ、神に従わないことほど残念なことはありせん。

8:40 ところが今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに語った者であるわたしを、殺そうとしています。アブラハムはそのようなことをしませんでした。

 彼らは、アブラハムのように神を恐れる者ではありません。その言葉に聞き従う者でもありません。イエス様を殺そうとしました。イエス様は、神から聞いた真理を彼らに語った方です。真理とは、神の御心を行い、神の祝福を受ける道のことです。それは、それを聞き入れた人の幸いをもたらすものです。永遠の祝福です。

8:41 あなたがたは、あなたがたの父がすることを行っているのです。」すると、彼らは言った。「私たちは淫らな行いによって生まれた者ではありません。私たちにはひとりの父、神がいます。」

 イエス様は、ユダヤ人たちが父である悪魔がすることを行っていることを指摘しました。

 ユダヤ人たちは、今度は、自分たちはそのようなものではなく、神の子であると言いました。本当に神を恐れ、神に従っている者であると。彼らは、自分たちがどのような者であるかを全く理解していませんでした。彼らは、アブラハムと同じ信仰者であり、神の目に適っている、神の子であると考えていたのです。しかし、彼らは、神から遣わされた方を信じることがないのです。

8:42 イエスは言われた。「神があなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。わたしは神のもとから来てここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わされたのです。

 ユダヤ人たちは、彼らが言い表したように自分が神の子であるならば、イエス様を愛するはずです。イエス様が父の元から来たのですから。神様が遣われさて来たのです。自分で来たのではないとも言われました。ただただ父の御心の実現のために来たことを言われたのです。そのように、神が遣わした者を愛するはずであるのです。

8:43 あなたがたは、なぜわたしの話が分からないのですか。それは、わたしのことばに聞き従うことができないからです。

 イエス様がいくら説明されても、彼らには分かりませんでした。それは、彼らがイエス様の言葉に聞き従うことができないからです。彼らには、イエス様の言葉を受け入れる心がありませんでした。聞き従うことができないのです。

 神の御心を求める人は、どんな言葉も、行うことを願うし、言葉の一つも聞き逃さないように聞こうとします。また、忘れないようにしようとします。そうすることで神の言葉を心に蓄えることができるからです。また、意味の分からない言葉であるならば、その意味を知ろうとします。意味の分からないことを行うことはできないからです。

8:44 あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと思っています。悪魔は初めから人殺しで、真理に立っていません。彼のうちには真理がないからです。悪魔は、偽りを言うとき、自分の本性から話します。なぜなら彼は偽り者、また偽りの父だからです。

 そして、彼らは、悪魔に支配されている者です。父である悪魔の欲望を成し遂げたいと思っているのです。悪魔は、初めから人殺しです。それは、アダムとエバに対して企んだことからわかります。彼らに死をもたらすために働いたのです。神の御業を破壊しようとしました。そのように、ユダヤ人もイエス様を殺そうとして、神の業を破壊しようとしています。

 また、真理に立っていません。神の御心に従って生きるということをしていないのです。神に逆らい、敵対しようというのが悪魔の働きです。真理を示されても、それに聞き従うのではなく、それに敵対し、逆らおうとするのです。ですから、真理の言葉を聞こうとしません。神の言葉に聞き従うことと、それによってもたらされる祝福について耳を傾けようとはしません。彼のうちには、真理がないのです。彼自身には、神の御心を行おうという思いも、歩みも一つもありせん。

 そして、彼は、アダムとエバを騙しましたが、初めから嘘つきです。彼の本性だからです。彼は、偽り者、そして、偽りを言い、行う者の父なのです。彼らには、悪魔が働いています。

8:45 しかし、このわたしは真理を話しているので、あなたがたはわたしを信じません。

 彼らがイエス様を信じないのは、真理を話しているからです。その背後に働く悪魔は、真理がないのです。それに敵対するだけなのです。ですから、その悪魔に支配されているユダヤ人たちは、信じることができないのです。悪魔が、真理に従わないように働くとき、彼らは、真理に従って得られる祝福よりも、この世の誉れを得たいだけなのです。彼らの欲望がそのように働くので、真理に従おうとしないのです。

8:46 あなたがたのうちのだれが、わたしに罪があると責めることができますか。わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか。

 イエス様は、真理を話していました。その真理を話す方自身は、真理のうちに歩んでいました。すなわち、神の御心だけを行って歩んでいたのです。あなた方のうち罪についわたしを責める者がありますかと問うたのは、真理を身をもって行っていることの証しなのです。そのイエス様のように歩むことを求めておられるのです。イエス様は、真理を行うことを身をもって証しされた方であり、信じるに値する方であるのです。

 イエス様は、真理を話していたばかりでなく、真理のうちを歩んでいたのです。すなわち、神の御心を行う歩みをしていたのです。ですから、罪がありませんでした。誰もその罪を責めることができません。一時も神の御心から離れ、背くようなことはなかったのです。

 その方が語る真理は、本物です。裏付けがあるのです。それなのに、なぜ信じないのかと問いました。

・「わたしに罪があると責める」→「罪のあらゆる点についてわたしを責める」罪について何も責めることができない。

8:47 神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。」

 それは、神から出た者だけが神の言葉に聞き従うのです。彼らは、神から出た者ではありませんでした。彼らの振る舞いが証明しています。

8:48 ユダヤ人たちはイエスに答えて言った。「あなたはサマリア人で悪霊につかれている、と私たちが言うのも当然ではないか。」

 ユダヤ人たちは、イエス様によって、「あなたがたが神から出たものではないからです。」と言われたことに対して、これを強く否定しようとしました。まず、イエス様がサマリヤ人であると言いました。これは、全く当たらない言葉です。ただイエス様の言葉を聞きたくないだけなのです。

 そして、悪霊に憑かれていると言いました。そういうのが当然だというのです。悪霊に憑かれているかどうかの根拠はないのです。自分と合わないことを語るので、それを否定するために言っているに過ぎません。

 これは、人の言うことを封じるための常套手段です。相手を黙らせればよいという思いで語っているのです。

8:49 イエスは答えられた。「わたしは悪霊につかれてはいません。むしろ、わたしの父を敬っているのに、あなたがたはわたしを卑しめています。

8:50 わたしは自分の栄光を求めません。それを求め、さばきをなさる方がおられます。

 イエス様は、彼らの心無い、根拠のない言葉を聞き捨ててもいいのでしょうが、そうはなさらないで、彼らの言うことに答えられました。悪霊に憑かれてはいないと。

 それどころか、父を敬っていることを示しました。彼らの主張とは、全く逆です。彼らは、そのようなイエス様を卑しめているのです。

 その事を言うのは、自分の栄光を求めてのことではありません。人は、自分の誇りを傷付けられることをひどく嫌います。しかし、イエス様が反論されるのは、そのためではありません。その栄光を求める方がいるのです。その方の栄光のためにそれを言うのです。彼らがイエス様の言葉を拒むならば、イエス様を遣わされた方の言葉を拒むことであり、その栄光を汚すことになります。彼らが信じることで父の栄光が現されるのです。さらに、その方は、すべてのことを裁かれる方です。ご自分の栄光を汚すものを放っておくことはありません。彼らがその裁きを受けることになるのです。イエス様も、それを望みません。

・「むしろ」→「それどころか、全く反対に」

8:51 まことに、まことに、あなたがたに言います。だれでもわたしのことばを守るなら、その人はいつまでも決して死を見ることがありません。」

 イエス様は、彼らが永遠の命を持つために、このことを語られるのです。誰でも、イエス様の言葉を守る人が決して死を見ることがないのです。イエス様の言葉を守る人です。イエス様を神と信じることは当然の前提です。既に信じたユダヤ人に語られたように、イエス様の言葉にとどまることが必要です。

 決して死を見ることがありませんとは、既にイエス様を信じたのですから、地獄の滅びに入ることはないのは明らかです。このように言われるは、罪の奴隷として罪を行うときに、神の前に死ぬことを言っています。実を結ぶことなく、報いを相続することがないのです。

8:52 ユダヤ人たちはイエスに言った。「あなたが悪霊につかれていることが、今分かった。アブラハムは死に、預言者たちも死んだ。それなのにあなたは、『だれでもわたしのことばを守るなら、その人はいつまでも決して死を味わうことがない』と言う。

 ユダヤ人は、イエス様の言葉が全く理解できませんでした。イエス様が永遠の命を持つことについて話されたのに、自分たちの理屈で否定しました。彼らは、神の言葉に従って歩んだアブラハムが死んだこと、また、預言者たちも神の言葉に従って生きていたのに死んだことを取り上げ、それなのに、イエス様の言葉をを守るならば死なないということは、あり得ないと言っているのです。そのようなことを言う者は、悪霊に憑かれていると。

8:53 あなたは、私たちの父アブラハムよりも偉大なのか。アブラハムは死んだ。預言者たちも死んだ。あなたは、自分を何者だと言うのか。」

 そして、次は、論点を変え、逆にそれだけのことを言うならば、アブラハムよりも偉大なのかと問いました。ユダヤ人たちにとっては、アブラハムは、最も偉大な人の一人です。しかし、アブラハムは、人であって、彼も死にました。また、預言者たちも神の言葉に従って生きたのであり、偉大な人たちなのです。しかし、彼らも死にました。イエス様が、イエス様の言葉を守れならば、死を味わうことがないと言われるならば、死を克服できなかったアブラハムよりも偉大でなければなりません。アブラハムよりも偉大な者であると言うつもりかと問うています。

8:54 イエスは答えられた。「わたしがもし自分自身に栄光を帰するなら、わたしの栄光は空しい。わたしに栄光を与える方は、わたしの父です。この方を、あなたがたは『私たちの神である』と言っています。

 彼らの質問に対して、イエス様は、彼らが信じるために、ご自分が誰であるかを証しされます。ただし、その前に、その証しは、自分のためではないことを明確にされました。もし、自分の栄光を帰するためにこれをするならば空しいと言われ、自分のために求めた栄光でないことを明確にしました。

 その上で、イエス様に栄光を与える方は、イエス様の父であることを証しされました。ユダヤ人が「私たちの神」と言っている方です。このように証しされることで、ご自分が神の御子であることをはっきり告げられました。

8:55 あなたがたはこの方を知らないが、わたしは知っています。もしわたしがこの方を知らないと言うなら、わたしもあなたがたと同様に偽り者となるでしょう。しかし、わたしはこの方を知っていて、そのみことばを守っています。

 イエス様は、この方を知っていることを証しされましたが、その意味は、ユダヤ人が知っていると言うのとは異なり、実際に存在される父である神を認め、その方の言葉を守っていることです。

 ユダヤ人は、私たちの神であり、父と言い表していましたが、この方の言葉を守らず、偽善を行い、人を殺そうとまでしていました。彼らは、神を知っていると言いながら、偽り者です。

8:56 あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見るようになることを、大いに喜んでいました。そして、それを見て、喜んだのです。」

 アブラハムは、神の御子が人として歩まれ、神の御心を行うことを見ることを喜びとしていました。それこそ、神の御子の栄光であるからです。父がそのような御子の歩みに対して栄光を与えることを見ることを喜びとしていました。神が、御子に栄光を与えることは、父のもとに引き上げられ、右の座に着くことで明らかにされます。

 なお、アブラハムは、すでに義とされています。彼は、自分が十字架の御業によって罪が贖われることに対して関心を持っていたのではありません。十字架の御業は、最も強い関心を抱くことの一つですが、彼は、むしろイエス様が父の御心の実現のために十字架の業を完成することに強い関心があったのです。

 彼は、その日を見ることを喜んでいましたが、それを見て喜んだとも言われました。今、喜んでいるのです。彼は、生きていて、地上のイエス様を見て喜んだのです。

・「わたしの日」→イエス様が人となってこられた日。

8:57 そこで、ユダヤ人たちはイエスに向かって言った。「あなたはまだ五十歳になっていないのに、アブラハムを見たのか。」

 イエス様が、アブラハムが喜んだこと告げたことに対して、ユダヤ人は、イエス様がアブラハムを見たのかと問いました。彼らは、イエス様の年齢を五十歳と見積もって、約二千年前のアブラハムを見たのかと問いました。なぜ、イエス様がアブラハムのことを知ることができるのかと。イエス様の言葉が、偽りであると言いたいのです。

8:58 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです。」

 イエス様は、さらに明確に、ご自分のことを証しされました。アブラハムが生まれる前から、存在したのです。それを「わたしはある」と言われました。これは、神様がご自分のことを証しする時に使われる言葉で、御自分が永遠の存在者であることを証ししています。永遠の昔から、永遠の先まで、存在することを証ししています。これが、神の最も大きな特質です。

 イエス様は、永遠の存在者である神として、アブラハムの生まれる前から存在していることを証しされました。

8:59 すると彼らは、イエスに投げつけようと石を取った。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。

 ユダヤ人は、この言葉を聞いて、すぐに石を取り上げ投げつけようとしました。彼らには、イエス様が「わたしはある」と言われた意味が分かったのです。ユダヤ人には、人の姿を取られた方が、永遠の存在者であるとはとても信じられなかったのです。それで、人でありながらそのようなことを言われたので、神を冒涜しているということで、石打ちにしようとしたのです。

 ユダヤ人は、イエス様の証しを理解しながら、信じようとしませんでした。イエス様を殺すことだけを考えている彼らは、イエス様の言葉が何一つ自分のものにはなりませんでした。人の話を聞いて理解できても、話をする人を信用しなかったので、その言葉が心に入らないのです。

 コリント第二では、パウロを受け入れない人々がいることに対して、パウロは、まず、その人たちの心を開くために記しています。そこには、偽使徒の扇動もありましたが、本来ならば口にすることのないような自慢話をしてまで、偽使徒よりも優れていることを証しします。肉の考えに陥った人たちの心をパウロに向けさせ、パウロを信頼させるためです。そうでないと、彼らに語る言葉は、何一つ受け入れられなくなるからです。